人に優しくできる人って失敗を経験していたり、誰かに悪意を向けられたり、辛い経験をしていることが多いです。
辛い経験があるからこそ人に優しくなれるのではないかと思いました。
今日はそんなことにフォーカスして書きます。
可愛い子には旅をさせろ
よく言われる言葉です。
他にもこんな言葉があります。
- 獅子は我が子を千尋の谷に落とす。
- 苦労は買ってでもしろ。
これらの言葉に共通しているのは「辛い経験」です。
短絡的に辛い経験をしろ!ってやみくもに言いたい訳ではありませんが、昔からこれだけの言葉が伝わってきたということを考えると、まんざら嘘でもないのかなと思いました。
先日、とある方とお会いして、色々な苦労や経験について伺いました。
その方はとにかく色々な挑戦をされ、失敗も重ねている方でした。
だけど、それで歩みを止めることはなく、更にいろいろなことに挑戦をし続けていました。
そこで覚えている厳しい一言があります。
「結果に結びつかない努力は努力と言わないのではないか。」
自分に対して噛みしめるように言った言葉でした。
どんなに傷付いても先へ進むというのは誰しもできることではありません。
だから人と違う魅力が生まれるし、価値になると思います。
けれど、その道は茨の道で、覚悟を決めないと進めないんだとはっきり思いました。
一種のふるいであるということ
通過儀礼はそれをもってして初めて認められるような儀式です。
その儀式は一種のふるいであり、通過しなければ資格がないのだとはっきり分かるものなのかもしれません。
要するにゴールを目指すだけなら誰しもができるけれども、到達できるのはほんの一握りの現在、この人は本当にゴールを目指す意志があるのかを問うているのかなあと思いました。
これを乗り越えないと次はないぞ、というのは本当に辛く厳しい試練であり、それはまた強要されるべきものではありません。
だからこそ自発的に向かうことが大事であり、そうなりたいと願うわけです。
ただ、ここで言っている「次はないぞ」というのは、高みを目指す意味合いでのことです。
試練は乗り越えなくても生きていけるし、乗り越えないまま成功を収めている方もいます。
ゆえに万人に当てはまるものではないのでしょう。
でも、僕が見てきた努力の人は皆何かの過去を背負ってそこに立っているように思いました。
痛みは知らなければいけない?
そんなことはないはずです。
ないはずですが、痛さを知らないというのは恐いことだと思います。
どこまでも突き進めてしまうし、誰かに対して強いることだってできてしまう。
傷ついたことがない人は他の人に対してとことん厳しかったりします。
言われた側の心の持ちようなんて考える隙間がないからです。
優しい人は、おもんばかることができる人だと思います。
過去の経験を生かして、それを次の人に託せる人だと思います。
裏付けられた優しさを考えたとき、この人はどういう過去を過ごしてきたんだろうと想像します。
痛かった過去や、傷付いた過去がひとつでもあれば、クッションという存在を知るし、伝える方法も知ることができます。
だから、知らなければいけないものではなく、知っておくと良いのが「痛み」なのでしょう。
また、痛みは自分から希望しなくても向こうからやってきたりします。
その回数が多いほど、筋肉のように鍛えられるかもしれませんが、痛みが極端に強いと壊れてしまいます。
痛みが一切ない世界は健全ではないと思いますが、痛みが極端に強い世界も健全ではないと思います。
あんばいが難しいですが、少しの痛みなら知っておいたほうが良いのでしょう。
痛みから逃げ続けてきた
努力とは縁遠い人生でした。
中学のときはなんとなく野球部に入り、努力しないのにひとまずレギュラーになりました。
卒業間近になって、自分より下と言われ続けていた人に抜かれました。
高校も大学も試験をせず入学をし、ひとまず卒業をする。
会社もいくつか受けて、落ちては拾ってもらえたところにとりあえず入社。
そこで初めて周りとの差に気が付きました。
「自分はこんなにできないのか…」
愕然としました。
そして、努力をしてこなかった自分はそもそも努力の仕方がわからない。
頑張るフリをして評価だけはなんとなくもらっているが、結果は何もない。
空っぽでした。
多くは、今まで頑張ってきた自分とともに、辛い思いも同時に経験するものです。
しかし自分は辛い思いから逃げ続け、対峙したときには壊れてしまうかと思うくらいのプレッシャーでした。
いつか来てしまう辛い思いなら、少しでも慣らしておけた方が良いのかなあと思います。
本当は辛い経験なんてせずにいたいですよね。
たぶん、そういう世界はきちんと存在していて、自分が知らないだけなんだと思います。
毎回そんな未知の世界を空想しています。
柿生スタジオのまらえもんでした。