存在証明を鳴らせ


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一体何のために生きてるんだろうって何度も思ったりしませんか。

僕は思います。唐突に、そして何度も。

そうして行き着く先が意味は無いから意味付けをしないと駄目なんだってことでした。

 

 

恐らくそこに答えはない

何度考えても考えても、中途半端になってしまいます。要らんことを考えている気がしますね。

 

そもそも何の為に考えること自体無意味なことなのかもしれません。

それでも考えてしまうときはあるんですよね。

 

悲観的でも何でもなく、前向きなときでも、普通のときでも。

 

日常に根ざした一つのルーチンのように、生きている理由は常に隣に寄り添っている気がします。

 

そのうえで、探そうとして隣を見ると居ないように感じて、気にしなければしないほど自分が充実してしまう。

 

生きている理由って考えないときのほうがよっぽど健全なのだと思います。

 

何故なら考える暇もないほど充実しているからです。

 

自分の中にわざわざ生きている理由など考えずとも、毎日がそもそも生きている理由そのもの、みたいな感じです。

 

だったら考えずにいたほうがいいはず。

なのに考えてしまう。考えても答えが出ないのに。

 

生きている理由を欲しがっている

生きている理由、それを探し続けているということは、ひたすら問答を続けているようなものです。

 

そして、現状に全く満足していないことでもあると思います。

 

向上心があろうがなかろうが、虚無感をたずさえてゆるりと先に進んでいくしかない。

 

そんな悲しい思いでいるのかもしれません。

 

でもそんな状況って客観的に自分のことを見ていることでもあります。

 

自分には生きる理由がないと思うことって生きたいと思える何かがないということだと思うんです。

 

その何かが見つかるまで渇きは癒えないんじゃないかなあと。

だから見つけたいと思ってるし、前に進もうと思っている。

 

とてつもなく可能性に満ちた状態です。

 

その渇きってスポンジのような吸収力で水分をググっと吸い上げるはず。

 

そして、生きる理由を探し続けていることで、アンテナが常に張られている状態になっているからインプットが沢山入ってくる。

 

意識すればするほど、情報が舞い込んでくる。選択肢が増えていく。

 

そんな可能性に満ちた時期だと思うんです。

 

存在証明を鳴らせ

会社で同僚と話していたとき生きる理由の話題になりました。

 

以下、同僚の話です。

 

何のために生きてるのかわからなくなるときがあるんですよね。

でも、自分には生きた証を残したいっていう気持ちがあるんですよ。

僕は創作活動をしているときに「満たされた」って思います。

 

僕は唸ってしまいました。

おんなじだなあって思います。

 

その人は自分よりも高度な場所で創作活動をしていますが、きっと出発点って一緒なんだろうなって感じました。

 

僕が僕であるために尾崎豊は歌い、自分でい続けるためには勝ち続けなければならないと言います。

 

自分は何かをしなくても自分ではあるけれど、でもどこか満たされなくて、自分である必要がないように感じます。

 

やっぱり、存在証明を残すために生きるのが良いんだなあと思います。

 

残して何になるかとか、全くわからないしそれが何だって言われるかもしれない。

 

自分が自分でいるための存在証明を鳴らし続け、ここにいるぞ!と叫ばなければ。

 

いつか日の目を見る日のために。

 

柿生スタジオのまらえもんでした